死ぬことは怖いことだろうか。
70以上まで生きて、人生それなりにやり切ったと思っていたとしても、自分の命が消えていく感覚は怖いものだと思う。
現代医療をもっても不老不死にはならないのに、病院は死ぬ場所ではなく治す場所だから。あとは消えるだけの命でも精一杯延命させてしまう。
治らないと分かっているのに治そうとすることは、医療を受けられないのと同じくらいの苦痛だろうと思ったのがこの本だった。
『看取り先生の遺言』奥野修二
宗教がないから死に方が分からない
日本人は無宗教だと言われている。
キリスト教徒の友人は毎週教会に行っていたし、イスラム教徒の友人は1日に5回も祈っていた。
確かに日本人に祈る文化はないし、死んだ後の肉体は神様の元に返すことになるというような、死んだ後についての共通認識もない。
しかし、私は日本人は無宗教なのではなく、多神教だと思っている。
この本にもあったが、災害で家が崩れれば位牌を探すし、「そんなことをしたらお天道様に叱られる」というような言い方も一般的だ。
先祖も、太陽も、海も、山も、川も、自分が持っている一つ一つの物にまで感謝して、敬って、大切にする。それが日本の多神教なのではないだろうか。
少なくとも私にとっては、キリスト教やイスラム教よりはしっくりくる考え方だ。
宗教がある人の良い点は、人は死んだらどうなるのか、誰に導かれて死ぬのかという問いに自分なりの解を持っていることだ。
若いころから死生観を育てられるから、いざ自分が死ぬ番になった時に、つらい思いをして抗がん剤や胃ろうを受けて延命しようとするのではなく、朦朧としていく意識に身を任せることができる。
周囲の家族も、無理に治療して少しでも長く生かそうとするのではなく、ああお爺ちゃんにはお迎えが来たんだねと、見送ることができる。
死に方が分からない怖さ
病院は治すための場所だから、副作用があっても、完治することはないと分かっていても、抗がん剤治療をして少しでも癌を小さくしようとする。
衰弱して食べられないとなれば、胃ろうと点滴をする。
血圧が下がって意識が朦朧としてきたとなれば、血圧を上げる薬を打つ。
しかし、全ては死ぬまでに起きる生理現象なのだ。
はっきりとした意識のまま、食べられないのに体にはそれなりの栄養があれば、まだ生きようとしてしまう。
意識があるので、副作用があると分かっている薬で少しでも治そうとしてしまう。
そうして体につながれる管の数が増えていき、延命治療に突入するわけだ。
ではなぜ最初に治療を受けようとするかというと、死を受け入れられないからだろう。
死ぬのが怖いから医者に治してもらおうとするのだ。
人間いつかは死ぬということは、最初から分かっていたのに。最後まで死ぬのが怖い、治療したいと思いながら死ぬのは、本人も周囲も辛いことだろう。
死に方を考えたい
薄れていく意識の中、先に死んだ両親がお迎えに来る。
もうすぐ行くよと声をかけて、残す家族にお別れを言う。知人にお礼を言う。
残される家族は、天国への道に迷わないようお経をあげる。
死を受け入れる宗教観が必要だと思った。
苦しそうだから救急車を呼ぼうとか、死が怖いから治療しよう、ではなくて、人生で経験することの一つとして受け入れる。
それができる教え、信じられるストーリーが必要だと思う。
死を受け入れられる土壌
落ち着いて死を受け入れるためには、まず日本人の宗教への訝しいという印象を払う必要があるだろう。元々位牌を大事にするなどの信仰はあったのだから難しくはないはず。
実際に死ぬ前に「お迎え」があったという体験談も多々あるそうだから、それを共有するのも良い。
日本人が本来持っていた先祖崇拝にもつながるので、受け入れやすいのではないだろうか。
亡くなると分かっている人を、病院ではなく在宅や介護施設で面倒を看るための制度も必要だ。
今の介護保険は、1,2時間の単発の作業しか発注できなくなっているので、在宅介護するには家族の負担が大きすぎる。
シフト制で長時間誰かが貼り付ける体制を確立しなければ、介護はできない。
いよいよお迎えが来たとなった時に、家族と一緒に宗教的儀式を行える臨床宗教師も必要だろう。
苦しそうに息をする人のために救急車を呼ぶことは、多方面にとって良いことではない。
家族が一丸となって見送りができるような儀式があれば、「辛くて見ていられない」ということもないのではないか。
痛みを和らげる緩和ケアには医療を使いつつ、基本は在宅でそれ以上の治療はしないという方針。
家族の介護負担を軽減するための介護サポート制度。
見送る側のケアもできる宗教的儀式と、死に方が分かる死生観。
これらが必要だと思う。