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国立西洋美術館の自然と人のダイアローグ展。画家のレンズを通した景色を、私のレンズが捉える

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国立西洋美術館の企画展「自然と人のダイアローグ」を見に行った。
前にフェルメール展を見に行った時にも思ったが、美術館の企画展で見ると、さすが学芸員がきちんと整理して展示しているだけあるなと思う。
写真では伝わらない質感や、絵具の盛り上がりを感じられるのも美術館に行く意義だと思うが、それ以上に、物語をもって作品を見られるのが素晴らしい。

今回は「自然と人のダイアローグ」ということで、自然風景や、自然と共に生きる人間、といった作品を楽しむことができた。
自画像のように人間の顔に焦点を当てるのではなくて、鮮やかな色味の中に溶け込むように、顔の詳細は描かずにぼんやりと存在だけを描いている感じが好きだった。
工業地帯にこそ美術館を作る意義があると言ってコレクションを始めた、フォルク・ヴァング美術館の所蔵品もあるからだろうか。人を排除しきった完全な自然ではなくて、自然の中で生きる人間という共生を感じた。
鉱山労働は自然と戦うような仕事だっただろうから、日常の中の美しい自然や自然と共生してきた人間を描いた作品をコレクションすることが、鉱山労働者の癒しになると思ったのではないだろうか。

私が絵画を見た時に考えてしまうのは、写真と比較した時の絵画の意義だ。
今回は19世紀以降の印象派がメインだったので、既に写真機もある時代。
絵を描くことに対して、それ以前の時代に貴族が自分の姿を残そうとしたのとはまた別の意味があったはずだ。

忠実に描くのではなくて、心を動かされたものを見た後に残った印象をぼんやりと残す感じ。この朝霧の中の大聖堂なんてまさにそれじゃないだろうか。
対象を書き写すことが目的なのではなくて、昔、冷たい朝露の中で見た大聖堂を記憶から描きだしたような感じがする。

クロード・モネの『舟遊び』も好きだと思った作品。
描かれている場所はクロード・モネの近所で、人物は義理の妹と言われているが、風景も人物も朧気。顔もはっきりとは描かれていない。
風景も水面に映る花だけで、場所を特定できるものもない。画面の上の方の花は、水面なのか、画面に覗き込んだ枝の花なのか。
全てがはっきりと描かれていないからこそ、儚さや美しさを感じられて、さらには自分が見た似たような景色を引き出して、自分の記憶かのように思わされる。
私には桜が咲き誇った湖のある公園の記憶が呼び起された。多分モネが見たのは桜ではないのに、私は私の記憶を重ねて、この絵に桜を見ている。

写真に撮ったものを絵具で描いた画家もいた。
ゲルハルト・リヒターの『雲』。空を見上げたそのままのような、忠実な再現。
写真は客観的で、絵画は主観的なのか?いや、人間は目というレンズを通してしかものを見られないのだから、写真ですら客観的ではなく、見たものは全て主観的。
この空も、写真のように忠実に再現しているつもりでも、人によって見え方は違って、本物の空はもっと違う色なのかもしれない。

空想の世界のような絵と、写真のような絵を見た後の、ギュスターヴ・クールベの『波』は衝撃だった。
忠実に描かれているのに、実物よりも威圧的に感じるような、海。
クールベは「私は天使は描かない。見たことがないから」と言ったそうだが、見たことがあるものですら、見た人によって見え方が違うのだと思う。
海洋少年団に入って、それなりに海に親しんでいた私が海を見た時の感情と、クールベが22歳で初めて海を見た時の感情は違ったはずだ。クールベのレンズを通して見た海が描かれているから、私が本物の海を見た時の感情とは違った感情をこの絵から受け取ったように思う。

物を見た時の感情は人によって違う。
絵画の場合は、画家のレンズを通して見たものが、私のレンズを介して写るので、2重の主観に左右されている感じがする。

これ以外にも、風景画が多数展示されていた。ゴッホの刈り入れや、モネの睡蓮など、教科書で見たことがあるような絵画もあった。
観覧後にコメダでコーヒーを飲みながら感想を書く時間も含めて、良い休日を過ごせたなという満足感がある。

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